2017年


~CORVUSのことば~ 12月


年の瀬になると、この一年を振り返ったり、新たに迎える年に向けていろいろ抱負を語ったりするものなのかもしれませんが、ここ数年はそれ以上に、この世界の行方、時代の行方のほうに気持ちが引っ張られます。


第一次世界大戦の20世紀初頭から始まった「Euythmie=オイリュトミー」は、ご存知のとおり「eu=オイ」と「rhythmos=リュトモス」という古代ギリシア語を合わせて名付けられています。


「エウリディーチェ」「エウレカ」「エウロペ」など、ギリシア神話には「eu」の付いた神名が多く出てきますが、これは、「善い」「美しい」「調和した」「徳のある」といった意味を持つ言葉です。


また、「リズム」の語源でもある「リュトモス」という言葉には、古くは「形・姿」と言う空間的な意味も含まれていたそうです。この「リュトモス」のなかでは、時間と空間が結びついていますので、訳すならば、「生きた形」「律動形姿」と言ったニュアンスでしょうか。


この「eu」と「rhythmos」とが合わさって名付けられた「オイリュトミー」と言う名前のなかには、ですから、「道徳的な形姿」と言う意味合いが込められていると云えるかもしれません。


このことをあらためて捉えなおしてみますと、現代のこの絶望的なまでに「非道徳的」な時代において、オイリュトミーは真に「道徳的な律動形姿」としての真価を、切実に問われているのだと強く想わざるをえません。


…今年も怒涛のうちに過ぎて、気がつけばもう12月です。


これまで積み重ねてきたオイリュトミーを、皆さんとさらに深めて参りたいと思います。


CORVUS 鯨井謙太郒

《2017年12月》


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~CORVUSのことば~ 11月


音楽のオイリュトミーについて


オイリュトミーは、ドイツのルドルフ・シュタイナーによってこの世に生み出された身体技法・身体芸術で、言葉のオイリュトミーと音楽オイリュトミーという2つの柱を持っています。


音楽のオイリュトミーにおいて、楽曲のメロディーや、音と音の間の音程、和音の響きなどの音楽形式は、主に胸から上で表現されます。その動きは、人体の骨格構造など、胎児期にまで遡る人体形式と結びつき、もっとも完成された臓器としての肺を通して腕へ、指先へと、身体の内から外へ流れ出ます。この時、主に胸部で響いている和音と音程と、頭部と胸部の結びつきの中で歌うメロディーが、上方の空間全体を満たしています。


また、その楽曲の音楽形式を通して感じることのできる曲全体のダイナミズムは、オイリュトミーフォルムと呼ばれる足の運びで表現されます。このフォルムは、直線や曲線、幾何学的なかたちなど、多様な線で描かれています。しかし、実際にオイリュトミストが舞台上でフォルムを動くときには、そのフォルムは、目に見えない力の流れとして空間に現れます。この時、足は、リズムやタクトに働く力の流れと結びついて日常的な歩行から離れ、音楽の基盤の中に生きます。


このように、頭と胸、下肢がそれぞれ、メロディー、和音(ハーモニー)と音程(インターヴァル)、リズムとタクトと共に働いて、人体の全体と音楽の全体が音楽のオイリュトミーを通して結びつきます。そして、その全体を包み込むように、頭部から拡がる聴覚の、音楽においては無音の空間が、外側から働いています。


踊り手であるオイリュトミストとは、眼に見えるかたちで音楽を表現するだけではなく、音楽を「生きて」います。音楽のオイリュトミーは、オイリュトミストの内側で感得される音楽体験が新たな空間として外側に産み出される、いわば『眼に見える歌』としての身体芸術です。


CORVUS 定方まこと


《2017年11月》


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~CORVUSのことば~ 10月


近年、「ディープ・ラーニング」という言葉をよく耳にします。
いわゆるAI(人工知能)による機械学習の事ですが、現代とは、機械の能力がさまざまな領域で人間の能力を凌駕しつつある時代であるといえます。
IOT(Internet of things)社会化が急速に進み、さらには人工物のみならず、自然や人体までもが機械化していく時代にあって、反対に人間はみずからの内的な能力を堕落させ、むしろおのずからその尊厳を放棄しているように見えます。
それは表層的な生活における事がらだけではなく、時代そのものから「内面」が消え、同時に、ますます「内面」を見る眼も失われているということでもあります。
本来ならば、この世に生を受けてからその肉体を失うまで、人間は自分自身を育てつづけなければならないはずです。
しかし、そのための内的な魂の力を、いまや地球規模で「機械」という「外の世界」に明け渡しつつあるのかもしれません。

翻って、オイリュトミーとは、人間がみずからを徹底的に「内面」から育てつづけてゆくための技法です。
それはまた、人間が人間自身に対するたえまない「畏敬の念」を持たずして、到底進むことの不可能な道といえます。
みずからを「内面」から拡張すること、機械によって「外側」から拡張されることとの、この決定的な境界がみえなくなっていく時こそ、オイリュトミーが、来たるべき魂を育む術となると確信します。

CORVUS 鯨井謙太郒


《2017年10月》


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~CORVUSのことば~9月


私たち大人が既に忘れてしまった、自分が母国語を獲得してきた歴史。この言語獲得史を繙くことがオイリュトミーに携わる人間にとって意味深いものだということを、日を追うごとに変わってくる子供の言語に関わる環境の変化を目の当たりにしながら感じます。人がそれぞれの名詞の、意味ではなく響きの模倣から始まり、快・不快や共感・反感、主格の芽生え、二語文が三語文になり、助詞が所有格や目的格を持ち…、というそれぞれの段階のひとつひとつを内的に追体験しようとしてみますと、そこに現れてくるのは、まだ自らと世界との境界が明確には分かたれていない、シュタイナーがレムリアやアトランティスと表現した遥か過去の時代の人間像でした。誕生から母国語獲得までの間の数年は、内的に観ればまさに、言語に関わる人類史の雛形であるというのは過言ではありません。

そして、視点は変わり平安時代、江戸から明治、戦前から戦後、それから現代へと続く私たち日本人の言葉と意識の関係の変遷に目を向けて、その時々の身体を内的に追体験しようとしてみますと、そこに現れてくるものは徹底的な自然性・神性からの脱却です。これは、明確なひとつの「死のプロセス」であると言えます。この「死のプロセス」という概念自体は、必ずしも否定的なものではありません。

そうしてみると、自らの身体の言語史を振り返ったとき、現代に生きている私たちの身体が担う、言葉の歴史的変遷に驚嘆します。さらに先を見ればテクノロジーの領域にも垣間見える、言葉の記号化の先の言葉の無性化(相互意思疎通化)の時代が門前に迫っています。そして、私たちはどのようにそこに立つのか、考えます。

CORVUS 定方まこと

《2017年9月》


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~CORVUSのことば~7月



過去について思うこと



かつて経てきた種々の作品について話している時。


幼少の頃にお世話になった人達に再会した時。


苦楽を共にした同輩達と稽古場にいる時。


こどもの過ぎた年齢期に気持を向ける時。


等々‥



もはや、遡るという感覚は喪失して、その地点に固定されている時空間が、意識の光に当てられて新たに蘇生する。


肉体が経てきた時間も意味が無くなり、透明な身体感覚と言語感覚から成るパラレルな『空間』が偏在し始める。



‥人間というモノの有り処が、恐ろしい速さで移行していく時代、なのかもしれないと思うこの頃です。


CORVUS 定方まこと


《2017年7月》


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~CORVUSのことば~6月


昨日起きた事は、今日起きている。


今日起きている事は、明日起きている。


明日起きる事は、昨日起きている。


昨日、起こらず


今日、起こらず


明日、起こりえぬことは、何もない。


だからもう、過去を超えよ。


CORVUS 鯨井謙太郒


《2017年6月》



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 ~CORVUSのことば~5月


初夏の日差しに新緑が映える、梅雨の前のこの時期。夏へと至る自然の大きな深呼吸を感じます。



今から6年前に、《水晶ノ夜》というオイリュトミー作品を手がけたことがあります。その時の私自身のテーマは、「戦争」と「聴くこと」でした。全編を通して自分は踊っていない、唯一の舞台作品です。その作品の中から、詩をひとつご紹介します。



みみをすます

きょうへとながれこむ

あしたの

まだきこえない

おがわのせせらぎに

みみをすます



これは、谷川俊太郎さんの『みみをすます』という詩の最後の一節です。「聴く」という行為の本質をついた言葉です。



私たちはふだんの生活のなかで、過去から続いているひとつの時間の流れの先端で生きている、あるいは、あらかじめ決まっている未来に身を沿わせて生きている、そのどちらかの状態にあると感じます。しかし私たちの身体を顧みれば、頭、胸、そして喉を通して、声が音声としてこの世界に発せられるまさにその瞬間は、聴くことと発声することの出会いのなかで、常に現在が生まれています。


今月も、オイリュトミーのからだを通して、学んでいきましょう。


CORVUS 定方まこと


《2017年5月》



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 ~CORVUSのことば~4月



あるとき思いがけず、過去の出来事や、かつて出会った誰かと、ふたたび巡り会うことがあります。


そんな時、もはやほとんど忘れ去られていた記憶や、過去の関係性が、いまの自分の身体のなかに不意に蘇ってきます。


同時に、過去のさまざまな出来事が、現在の姿となって目の前に立ち現われたかのようで、思い出と現実の不思議な「重なり」に、時が眩暈するような感覚を覚えます。


それはまるで「未来からの呼び水」が、「過去」を現在に呼び戻しているようでもあり、時間の流れが逆転したかのような気分です。


もし、これから来たるべきまだ見ぬ世界を「未来」と呼ぶとしたら、「過去」もまた、ただ過ぎ去った世界なのではなく、現在のうちに新たに創られ、常に生き続けられるべきものではないでしょうか。


その意味で、未来だけではなく、過去も常に変容しうる、といえる気がします。


もしかすると、未来と過去が、身体のうちで坩堝のように巡り合いながら、過去から未来へ、未来から過去へ、たえまなく呼応し合っているのかもしれません。 


それは、すでに起きた過去の事がらそのものがまるで意志を持っていて、未来の方から現在へと、巡り巡って何かを告げてくるかのようです。


思うに、身体とは、その始まりからすでに未来で待っているものでしょう。


地上の過去の全総体が、身体のなかにふたたび息衝き、現在形の姿で生きられ、新たに結実する時を、、、


桜も満開のこの季節、ことほぎの木の皆さんと過ごすオイリュトミーの時間を、心待ちにしています。


CORVUS 鯨井謙太郒


《2017年4月》


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 ~CORVUSのことば~3月


 物ごとを外側からみるか、内側からみるか。このことは、現代に生きる私たちにとって、今まさに考えなければならない問題だ、と思うことがしばしばあります。ふだん私たちは、様々なことを物・素材と結びつけることに慣れています。それと対照的な、物ごとを内側からみる、という視点を持たない限り、例えば神話や平安以前の和歌の成り立ち、古代人の世界観、また子どもたちがみている世界、などといったことの実層を捉えることは決してできません。その事物、その事柄を、物や行為として外側に現象する以前の、内側のこととしてみると、現実の世界の見え方がまるで変わってきます。


 オイリュトミーでも取り上げる色・音・匂いは、この内と外との間(あわい)に在って、いわば此岸と彼岸の橋渡しをするものです。かつての日本の人たちが詠んだ和歌のように、内と外をうつろう微細な感覚をもって世界に向かいたい、そう思うこの頃です。


CORVUS 定方まこと



《2017年3月》



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 ~CORVUSのことば~2月



花壇の実家のすぐそばを流れる広瀬川の対岸には、川に侵食されて形成された数十メートルの崖が切り立っています。


いったいどれくらいの時代がその崖の地層に堆積しているのかはわかりませんが、幼い頃、よくそこで貝や植物の化石探しをして遊んだ記憶があります。


太古の記憶が眠っている地球の地層を掘ると、さまざまな時代の痕迹が現代に現れてきますが、もし、古代人が現代に蘇ってきてそれを見たなら、どんな感覚で眺めるのでしょう?さっきまで見ていた夢の世界の痕迹が、朝の目覚めとともに、モノの姿で目の前に差し出されたような感覚でしょうか、、、


ところで、地層に古代の歴史の死んだ破片が堆積しているように、私たちを取り巻く大気のなかにも、そのような記憶の層があるかもしれません。


透明な空気のなかに、わたしの息が流れていくように、これまでのすべての人類の息や、声や、体熱が、眼には見えないかたちで今も残っているかも、、、と同時に、獣や、植物や、石も、悠久の地球の歴史のなかで、少なからず大気をふるわせ続けてきたでしょう。


だから、人が空気のなかにひそむ歴史とともに、その呼吸を行なおうとするなら、すでに目に見える形を失ったあらゆるものの想いが、ひとつひとつの呼吸のなかに立ち現れて、ふたたび呼応してくれる気がします。


枯れかけた植物が、新しい空気と水と光を浴びてふたたび息づくように、この地球上で生滅したあらゆる過去の総体が、私たちの呼吸のなかに、現在形のその姿をあらわし輝きはじめるような感覚です。


だから、もしかすると、歴史とは終わった過去の記憶のことではなく、その眠りから解き放たれるのを今もずっと待ち焦がれているものなのかもしれません。





、、、そんなことを思いながら、春まだき陽の光のなか、今月も「ことほぎの木」でオイリュトミーを共に深めて行きたいと思います。



鯨井謙太郒


《2017年2月》


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~CORVUSのことば~1月


音を聴くことについて


まだ十代の頃。学校にもろくに行かず、家でピアノばかり鳴らしていた時のこと。当時の自分にとっては、何かの楽曲を弾くということよりも、音が何処から生まれて来て何処へ消えて行くのか、ということの方がはるかに切実な問題でした。ピアノをペダルで開放弦にして、一音の生成と消滅だけに集中して耳を傾け続けていると、ある時、鍵盤から指が離れても「音が消えない」、また、指を置く前に「音が鳴っている」ということに気がつきました。誤解をおそれずに言えば全ての音は、無音の領域では既に「響いている」のです。注意深くその領域を聴きながら実際の音を紡いでいくと、その一音からまずリズムが生まれ、ハーモニー、メロディーが生まれていきます。



この、「音が鳴る以前」と「響きが消えた後」には、あるひとつの共通の意識感覚があって、その感覚に集中している時には、自分の内と外や、睡眠と覚醒、等ということを超えた、透明な没時空の世界に生きていることを感じていました。


この意識感覚は、オイリュトミーを始めて、いろいろな舞台作品を踊り、二十年あまり経った今でも続いています。動きが生まれる以前。また、何かことが起こる前とその後。


みなさんもどうぞ、何かの前とその後に、心の耳をそばだててみてはいかがでしょう。聴こえないモノを聴こうとするその瞬間に現れてくるのは、自分自身のもうひとつのカラダかもしれません。



CORVUS 定方まこと


《2017年1月》

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